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本日午後1時より、「第2回 歴史を150倍おもしろくするワークショップ」を開催致しました。
さまざまな行事が重なる中ではありましたが、3名の方にご参加いただきました。

スペシャルゲストは、室蘭で108年の歴史を誇る米穀店「ヤマコしらかわ」白川社長です。

お三方、白川社長には、なにかとご多用の折、ご参加いただきましたこと、
厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

写真は1枚しか撮れていません。ご容赦くださいませ。

進行のようす

<12:55>
予定より5分早くスタートしました。参加者さん同士で自己紹介。
「興味あり」という方と、「歴史と聞くとちょっと…」という方がいらっしゃいましたが、
このワークショップは、苦手な方も大歓迎のイベントでございます。
私ナビゲーター髙橋、ちょっとワクワクしてまいりました。

<13:15>
スペシャルゲスト登場!
さっそく、紹介とともに、序「道産米のいまむかし」のパートに入ります。
お米は年に一度の収穫。だから大切に育てなければなりません。
「食べられたものじゃない」と言われた北海道のお米が、今では大人気に。
そのストーリーと、産地・品種についてのお話をしてくださいました。

実は、白川社長にも、広島県・北広島市とのつながりがあることが判明。
また、米どころのお話では、「ササニシキ」から宮城県登米市のお話。
登米市といえば、仙台藩士・片倉英馬家があったとされる街。
片倉英馬といえば、中山久蔵が北海道入殖前に仕えていた人物。
本論に入る前から、お話が加速していきます。

<13:30>
1 「寒地・米作りの祖 中山久蔵」のパートに入ります。
自伝などといったものがないため、中山久蔵の生涯を調べる者にとっては、
実地調査やご親族、関係者の話を整理することが命題となります。
そのぶん、学ぶ我々にとっても、「これが答えだ!」という学び方よりも、進め易かったと思います。

旧家に次男として生まれ、家を継ぐことができなかった中山久蔵は、17歳のある日、父兄の承諾なく家を出ます。
放浪し、たどり着いた先は、仙台藩士・片倉英馬のもとでした。
仙台~白老を往来するようになりましたが、時は明治維新。戊辰戦争が終わり、壮年終盤の中山久蔵に転機が訪れます。
生まれ故郷の河内に戻るか、仙台で平民となるか、それとも…

彼が出した答えは、北の地で農業を興すことでした。
「働き盛りのころから今に至るまで、得るものは何もなく、どうしようもなかった。そして、今年は厄年(数え42歳)である。
 その厄が回ってきたとしても、なにが惜しいというのだろうか。」

最初、苫小牧に入殖しますが、条件が合わず、知人の紹介で島松沢(北広島と恵庭の堺)に移住します。
蓮根と、本州から持ち込んだユリ(根が食用となります)を栽培していましたが、肥料や建材のために稲わらが必要となったことや、
米の味を知っていて、北海道でも育てたいという思いがあったのでは、ということもあり、稲作を始めようとします。

その際、渡島大野の先駆者、高田万次郎のもとへ、教えを請いに足を運びましたが、
函館と札幌を結ぶ「札幌本道」を南下しています。つまり、今にいう「森蘭航路」を利用したのです。

北海道の稲作は、ご維新で禁じられましたが、それでも米作りに励んでいた中山久蔵を、「アッシ判官」松本十郎が応援します。
そして、北海道財務長に「米博士」酒匂常明が就任したこと、明治天皇御行幸で駅逓(中山家が担っていました)にて、
昼食で中山久蔵が作った米を、明治天皇御一行が召し上がられたこともあり、北海道の稲作が次第に広まっていきました。
禁止といっても、大々的に生産し、市場に流通させることを禁じたものであったから、米作りを続けていた中山久蔵にとって追い風となったのではないかと考えられます。

久蔵翁は、後に入殖する者にも、進んで土地を紹介し、また全道各地に種苗を頒布していました。
頒布先には、室蘭屯田(蓮根種1枡)という記録もありました。
参加者さんから、「もしかして、陣屋の蓮は、この蓮?」という質問がありました。
お恥ずかしながら、調べきれていなかったのですが、ひょっとすると、そうなのかもしれませんね。

<~14:30>

今日はまず、このあたりで、タイピングの手を止めたいと思います。
次回の報告は、「2 中山久蔵の足跡」「3 中山久蔵の人物像」をご紹介できればと思います。